業界特化型スタートアップの成長戦略:カケハシ中川氏が語るPMFへの道のり

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2024年8月26日、UB Venturesが運営する起業家のためのソーシャルクラブ「Thinka」にて、株式会社カケハシの代表取締役CEO中川貴史氏を迎え、「Product Market Fit (PMF)の達成」をテーマとした講演が行われた。

カケハシは、2016年に設立された医療テックスタートアップで、薬局向け業務支援システム「Musubi」を主力製品としている。創業から8年で従業員数300名を超え、グループ全体で全国の薬局の約20%にサービスを提供するまでに成長した。薬局業界に特化したソリューションを提供しつつ、医療・介護分野全体のデジタル化を目指す「ヘルステックプラットフォーム」としての展開も進めている。累計約150億円の資金調達に成功し、日本の医薬DX市場における主要プレイヤーの一つとして注目を集めている。

本講演では、医薬業界に特化したスタートアップとしてのカケハシの軌跡が詳細に語られた。特に、PMFの再定義、「尖った機能」戦略、業界理解の深化、そして段階的な市場攻略という4つの重要なトピックを通じて、B2Bスタートアップの成長戦略に新たな洞察をもたらした。

トピック1: 業界特化型スタートアップにおけるPMFの再定義

Product Market Fit(PMF)とは、製品やサービスが市場のニーズに適合し、持続可能なビジネスモデルを確立できた状態を指す。多くの投資家やアドバイザーは、PMFをスタートアップの成功の鍵と考えている。

しかし、中川氏はPMFの捉え方は企業によって大きく異なると指摘する。特に、業界特化型B2Bスタートアップでは、リーン・スタートアップの概念に注意が必要だと言う。「B2B、特に医療介護分野では、中途半端なプロダクトを出すと次のチャンスがなくなってしまいます。市場は限られているので、一度失敗すると挽回が難しいのです」

この認識に基づき、カケハシはワイヤーフレームの段階で実質的なPMFを達成するというアプローチを採用した。「私たちは、プロダクトを作る前にマーケットフィットさせる必要がありました。ワイヤーフレームの段階で、これができたら絶対に売れるという確信を持てるまで検証を重ねたのです」

さらに、PMFの達成には、プロダクトの品質だけでなく、営業力、カスタマーサクセス、導入支援なども含めた総合的な視点が必要だと強調する。「優れたプロダクトを作っても、それだけでは売れません。どれだけ顧客の課題を解決できるプロダクトであっても、適切な営業戦略や導入支援がなければ成功は難しいのです」

関連して、中川氏は問題の根本原因を見極めることの難しさを指摘する。「顧客がプロダクトをうまく使えていない場合、それがプロダクト自体の問題なのか、それとも導入や使用方法の問題なのか、見極めるのは非常に難しいです」。この課題は、PMFの達成を単純な指標で測ることの限界を示している。

トピック2: 「尖った機能」と「最小限の機能」のバランス戦略

PMFの再定義を踏まえ、カケハシが実際に採用した製品開発戦略を見ていく。

カケハシが採用した製品開発戦略は、一つの重要機能に徹底的に注力し、他の機能は最小限に抑えるというものである。中川氏はこの戦略について「薬歴のドラフトを自動的に生成する機能を主軸に据え、そこに全力を注ぎました。他の機能はほとんど何もない状態からスタートしたのです」と説明する。例えば、初期の製品では、薬歴のドラフトの自動生成は高度に作り込まれていたが、薬局業務に必須な印刷機能やレポート生成機能すらなかった。

この戦略はリソースの効率的な利用を可能にする。中川氏は「他社と変わらない部分については、特別な工夫を加える必要はありません。そこに時間をかけるよりも、差別化できる機能に集中すべきです」と説明する。

カケハシが絞り込んだのは機能だけではない。重要機能以外は欠けている段階でも、熱狂的に使ってくれる一部の顧客に絞り込んで提供を始めた。「最初は機能が全然足りず、個人店舗で、若手の薬剤師オーナーが自分で使うという限定されたユースケースでも、全然使い物にならないようなスタートでした。ましてや中規模や大手薬局には全然対応できないプロダクトでした。それでも、『カケハシのビジョンに共感して応援するから使うよ』と言ってくれた、そういう顧客の熱い想いに支えてもらって今がある。我々を支えてくださった顧客の方々には、本当に感謝しかありません」と言う。この限定的な顧客層から始めることで、製品の価値を証明し、徐々に市場を拡大していった。

「機能が不十分でも応援してくれる先進的な顧客を見つけることが重要です」と中川氏は強調している。初期の不便さを受け入れてくれるアーリーアダプターを意識的に探すことが重要だということだ。

この「尖った機能」と「最小限の機能」のバランス戦略は、限られたリソースで最大の効果を生み出そうとするスタートアップにとって重要な点である。市場での差別化、効率的なリソース利用、早期の市場投入、そして段階的な成長という多面的な利点を持つからだ。

トピック3: 業界理解の深化と顧客ペルソナの内在化

このようなPMFに至るまで、カケハシは徹底的な業界理解から始めた。中川氏は「最初の2〜3ヶ月で、コンサルティング会社が行うような徹底的な業界分析を自分たちで行いました。採用難や規制強化、業務効率化の必要性など、業界が直面する様々な課題を洗い出し、それぞれの関連性や重要度を可視化しました」と説明する。

この過程で30から40ほどのビジネスアイデアを創出し、それぞれの仮説を薬局オーナーや薬剤師に提示してフィードバックを得た。「仮説の中で精度の高いものを残していくプロセスを経て、最終的に私たちのビジネスモデルにたどり着いたのです」と中川氏は述べている。

特筆すべきは、中川氏らが取った顧客ペルソナの内在化というアプローチである。中川氏は「私たちは薬剤師A、B、Cという典型的なペルソナを自分の中に作り上げました。この人にこう言ったら、この人はこう反応するだろうという具合に、架空の薬剤師との対話を頭の中でシミュレーションできるようになったのです」と語っている。

このペルソナ構築のプロセスは非常に詳細で、「休日の過ごし方や将来の夢まで聞き取り、薬剤師としての感覚を自分自身の中に作り上げることを意識しました」と言う。

このような深い業界理解と顧客洞察は、製品開発の方向性を定める上で重要である。中川氏は「この理解があったからこそ、私たちは薬歴作成の支援という核心的機能に焦点を当てることができました」と述べており、前述の「尖った機能」戦略と関連しているだろう。

トピック4: 段階的な市場攻略と戦略的な大企業との関係構築

業界分析を行いターゲット顧客のペルソナを内在化させる。そこから得られたペインを解決する尖った機能を開発し、ワイヤフレームの段階でPMFを確信したカケハシ。そしてプロダクト開発においては、一つの重要機能に徹底的に注力し、差別化要素にリソースを注力した。

しかしその先のグロースフェーズは一筋縄で進んだわけではない。カケハシの成長戦略は、B2Bスタートアップにとって非常に示唆に富む事例だろう。特に注目すべきは、個店市場からエンタープライズ市場への段階的な進出戦略と、大企業との戦略的な関係構築のアプローチである。

今でこそ市場の20%のシェアを持つカケハシだが、エンタープライズ市場への進出は決して平坦な道のりではなかった。中川氏は初期の失敗について率直に語っている。「最初のエンタープライズ市場進出は時期尚早でした。大手企業からの問い合わせに興奮して、準備不足のまま飛び込んでしまったのです。結果的には、大手の要件を満たすには、全然不十分だったことが判明しました。一度足りないとレッテルが付くと、挽回するのは数年単位の年月と労力が必要です」

この失敗後、大胆な決断を下す。「2年間、完全にエンタープライズ市場への進出を凍結しました。その間、製品の機能強化と組織体制の整備に注力しました」と言う。

この期間中、大企業や先進的な企業の要求に応えるための準備を着実に進めた。「例えばセキュリティ認証の取得、監査機能の実装、365日のサポート体制の構築などを、一つ一つクリアしていきました」

再びエンタープライズ市場に挑戦する際、カケハシは戦略的に大企業との関係を構築していった。中川氏は業界との付き合い方のバランスについてこう話す。「大企業や先進的な企業は、先進的だからこそ、市場全体よりも進んだ/固有の要望を持っていることも少なくありません。ただし、SaaSカンパニーとしての成長を考えると、汎用的に競争力のあるプロダクト作りにリソースをフルに投下したい。1社だけの個別の要望に”だけ”対応してしまうのはアーリーなフェーズでは避けるべきです」

大企業との関係構築はB2Bスタートアップが陥りがちな落とし穴の一つである。「大企業の『下請け的なポジション』になることは避けるべきです。しかし、彼らのネットワークや知見は非常に学ぶところがあります。適度な距離感を保ちつつ、Win-Winの関係を構築することが重要です」と中川氏はバランス感覚の重要さを強調する。

カケハシの事例は、B2Bスタートアップが段階的に市場を攻略し、大企業と戦略的な関係を構築していく上で、以下のような重要な示唆を提供している。

カケハシの経験は、特に規制の厳しい業界や、中小企業からエンタープライズまで共存している市場においては、汎用的に競争力のある状態を維持しながらも、多面的なニーズにどう応えていくか、戦略に沿った判断と周到な準備が肝要であるという点を示している。ビジネスを展開するB2Bスタートアップにとって、貴重な学びとなるだろう。


取材・記事執筆:斎藤健二
編集:UB Ventures SaaS Research Team
2024.10.17